渡辺格著、「新しい人間観と生命科学」を読んだ。

八王子市の古書店、「古書むしくい堂」で1棚100円の陳列棚の中に売られていた。JANコードも付与されていないやや古い本。1979年第1刷発行とのこと。

裏面のあらすじは下記の通り。先に記事にした「内なる肖像」の著者、フランソワ・ジャコブと近い時期に活躍された生物学者の著作である。分子生物学に興味を持っていた、という点でも似通っている。

生命科学の発達は、医学の進歩とともに、細胞移植、遺伝子の組換え、体外受精児の誕生など人間が生命をも操作することを可能にさせた。その反面、様々な弊害や倫理的問題も起こってきた。本書では、この問題を分子生物学の世界的な額書である著者が展開し、”科学者の社会的責任とは何か””人類に貢献すべき科学・科学技術とはどうあるべきか””我々人間はいかに生き、考えるべきか”を問いながら、これからの科学と社会のあり方を考える。

渡辺格 『新しい人間観と生命科学』 講談社学術文庫 裏表紙より

著者はもともと、量子化学や分子構造論といった物理化学を専攻していた。特に言及はないが、著者が学生時代を過ごした戦前は、物理学の分野、特に量子力学においても黎明期だったであろう。
本書では、全く異質なものと捉えられていた物理学と生物学の隔たりを埋める分子生物学は、人類に多大な影響を与えたと記載される。確かに、遺伝現象の仕組みが不明瞭であった時期は、客観性が高い物理学に対して、法則性が見えづらい生命現象は取っ掛かりづらく、神秘的なものであったに違いない。そのような中、生物の形質とその発現に関わる生体内分子の物理的メカニズムの解明過程は、熱狂的に迎えられたに違いない。

分子生物学の大きな特徴は何かと申しますと、物理学を普遍性、信頼性、客観性の高いものとして、それを土台として生命現象を理解していこうということであります。それはたんに生物現象にとどまらず、生物の中でも特殊な人間、さらに人間の行動、人間の集団である人間社会の問題にまで向おうとしています。そして価値の問題、あるいは主観の問題にも及ぼうという姿勢をとっています。極言すれば客観から主観への方向を探ろうとしているといってよいと思います。

渡辺格 『新しい人間観と生命科学』 講談社学術文庫 p.92

さて、著者は、私たち人間ひとりひとりの性質というものは、後天的な環境の要因により多少の変化は生じるであろうが、遺伝的に決定されているものだ、と述べている。遺伝子のテープに刻まれたこと以上のことは望むべくない、個人の差というものは埋められざる限界がある、と。
上記について私は積極的な肯定はしかねるが、多様性に伴う生物的な弱者と強者、それに連なる社会的な弱者と強者のグラデーションは避けられない、という意見については同意見である。現実問題として、そうなのだろう。画一的な平等はあり得ない、という諦念が本書の節々から感じられるし、私もそのように思う。

また、科学の発展は医学の進歩を促し、自然界では淘汰されるであろう個体を減らし、相対的に弱者の範囲が広くなる、という面も持っている。

そのような抗えない前提のもと、弱者を切り捨てて強者が生きながらえる社会を選択するのか、弱者とともに生きる道を模索するのか。人類のこれからの生き方、いわば「価値感」について本書は疑問を投げかけている。

科学・技術の発展、医学の発達の結果、肉体的、精神的にマイナスをしょった人間が増えてくる。しかも、地球が有限になって閉鎖されて参りますと、現在の社会体制、現在の価値観の下では、やはり弱肉強食という形が起こらざるをえないと思うのです。そうしますと、現在の社会ですぐれていると自称している人間が、劣っていると見なしている人間を淘汰して、いわゆる少数の強者あるいは優者だけが残っていこう、ということになると思います。

渡辺格 『新しい人間観と生命科学』 講談社学術文庫 p.157

私自身、国が指定する難病を患っており、本書でいう弱者にあたるという自覚がある。医療費の助成を居住自治体より支給されている。医療費は(私個人としては)決して少なくなく、自費では薬代を賄うことができない。医療費助成が打ち切られた場合には、社会生活を送ることができない。死んでしまうであろうことが目に見えている。私は強者に救ってもらっている弱者である。

弱者ではあるけれども、というより弱者であるからこそ実感する部分であるかもしれないが、他の個体に進んで手を差し伸べることが、他の生物種とは異なるヒトとしての生き方ではないか、と考えている。ある環境では弱者と見做される個体も、環境の変化によっては強者となりうるかもしれない。遺伝子型の多様性という観点からも、いろいろな人がいたほうが心強い。
多様性というものを私は肯定したいし、そのような価値観が広がればいいな、と願っている。