転職に伴い、福岡に引っ越してきて1年が経過しようとしている。

環境の変化が大きくなると時間はゆっくりと流れるものだと思っていた。違っていた。日々が矢のように過ぎていく。

福岡は学生時代を過ごしてきた街だ。
言ってしまえば目新しさというものがない。引っ越してきた初日も、そして転職初日も心躍るような期待感というものがあまりなかった。こういうものだよね、という安心感。悪いように言い換えれば冷めていた気もする。

いや、どこか冷めた感じを維持しなければ、と自制を利かせていたのかもしれない。冷静でいる、ということと大人である、ということ。どこかその関係性を意識していた気がする。

人はさまざまな経験を積むことによって、あらゆる問題への対処法を身に着けていく。積み重ねてきた経験というものが、その人から成熟したものとして醸し出される。当たり前だけれども。

経験は自発的に積んでいったほうが良い。このことを実感するようになったのは最近である。私が小さいころの周囲の大人にはそのことをケアしてほしかった。その点をいまだに許せていないし、心の奥底に何か引っかかるものがある。喉元の魚の骨のように。そして、許容できない自分自身に救いようのなさを感じる。

最近買ってよかったと感じた本がある。「鬱の本(点滅社)」

何と真っすぐなタイトルなのだろう。書店で最初に見かけたときは、あまりの清々しさに正直怪訝な気持ちを覚えた。その歯切れのよさに、鬱に対する、いわば対処法のようなハウツーが書かれているのかな、と思った。違っていた。

見開き2ページに収まる程度の一編が複数綴られている。さまざまな鬱のかたち。日々の中で遭遇してしまう憂鬱な気持ちを、否定することなく、肯定することもなく、そういうものだよね、とそばで語りかけてくれるような本。気持ちが沈んでいるときは、活字はなかなか頭に入ってこない。短編であることがありがたい。

しかし、こんな風に生きてきたから私は欝質の人たちの痛みがわかり、心の形がわかる。何かの力になりたいと思う。そして、感受性の細やかな人たちこそが世界を美しくするのだと心から思っている。

『鬱の本』点滅社 p.21

この一節にはっとした。救いとなる人も多いのではないか。そうであってほしい。

過去を振り返ると、自身の感受性が障壁となり、一歩踏み出せず後悔していることが多いことに気が付く。周囲の人たちとの経験との差。今となっては取り戻すことが難しいもの。
そのような考えに囚われるとき、この一節は心に染み込んでくる。自分自身で許せない、納得することができない要素を柔らかく、包み込むように肯定してくれる。そのうえで希望を見出させてくれる。

この一節を含む一編を寄稿された飯島誠さんは画家をされている。作品を検索すると心惹かれた。私の感性に近しい方なのかもしれない、不躾ながらそのような思いも持ってしまった。個展を検索した。

画一的なものなど決してない。鬱屈したものを心の奥底に抱える人が確かにいる。
隣人の鬱屈を理解できなくとも、いや、理解できるなど烏滸がましく感じるけれども、そういうこともあるよね、と余白を尊重することができる。寄り添うことができる。

共感は心を軽くする、心からそう思う。